●竹槍日記(三十四) 宗像散人 〔福岡日日新聞 明治30年10月5日〕
△水野参事、福岡県庁を引揚ぐ 却説
さても水野参事は吉田鞆二郎、岡沢三中、等に誘引せられ、已
やむなく勝立寺
しょうりゅうじの本部に来りて、中村総督え面議して最後の処置を着せんとせしも、最早此時は中村総督は事の為す可からざるを量り、自から其罪を引きて意決する所あり、総督の辞表を呈す。
水野参事は深く慰謝して其事を務めしむるも、中村は俛首ふしゅして一言も発せざりし。参事は軍議そこそこにし、余は県庁を離る可からずとて、馳せ帰りたり。此時少属
しょうさかん野中勝良
かつら、史生壬生光、同中川鉄夫等は参事の左右に在りて書記を取りたり。会計課には権少属江浦直温
なおあつ、課員小島太郎、木村軍次、清原兎走
とそう、等は金銀の出納をなせり。大属池田直侯
なおよし、権大属大島保命(併に他県人)、権少属藤野孫六、上野為継
いつき、其外の課員四五名は共に租税課にありて、地租台帳、其外の公簿を管理し、其他は渾て各所へ出張して鎮撫隊糧仗の用を便し、又た鎮撫と説諭に随ひ在庁せるもの、使部使丁
しぶしちょうを併せ僅に十余人に過ぎざりき。
第三大区長久野寂也も亦た箱崎調所の保つ可からざる事を見て引上げ、相応の加勢を為さんと云て来庁す。折柄二名の陸軍士官熊本鎮台より来り、水野参事に面議して直に出発。行く所を知らず。彼の小倉県の属官高橋正清、恩田吉信が来たりしも、亦此時にてありし(共に六月二十一日の午前たり)。水野参事は稍や福岡士族に猜疑を容れしの余り、一揆の鎮撫の依頼を恃むべからずとなせしものか、高橋が一行をして急に馳せ帰りて小倉の士族を募集して其鎮撫の応援をなさんことを依頼す。
高橋は曾て本県に従職せし縁故もあれば、即席其募兵のことを諾し、直に出発して小倉に嚮ふの途中前回に記せしが如く遭難せしなり。此前後に方
あたり、各地の急飛は引も切らず。曰く、乱勢は博多を放火せり。曰く、博多にあらず、□□
(A)、□
(B)の両村たり。曰く、博多に闖入せり。曰く、未だ博多には這入らざるも、箱崎松原に勢を揃へり。曰く、士族隊は乱勢に内応せり。曰く、不平して持口を引上げしなり。曰く何々。
曰く一報は一報よりも急劇を告げ来ると共に、壮士連は三々伍々、各地先より馳せ来りて激論を放ちて曰く。早く放撃の命令せよ。曰く、両参事は自から来りて乱勢を説諭せよ。曰く、一県の長官たる参事は早く罪を引て県庁を去り、以つて福岡市街が放火せらるゝを救くふべし。曰く何々。曰く何々。
斯る区々の注進と壮士連が劇論は蓋し水野参事が決心をして、非常に攪乱せしめたり。就中
なかんずく参事が胸裏に劇敷く刺劇を与へしものは、福岡士族隊が反覆して乱勢へ味方せりとの一報は、壮士連が参事に罪を負はせ、県庁を去しめんとの一語にてありしと。抑も党民一揆の騒擾は間近く大分県に起り、森下参事(景■)は府内城に楯籠り、飽迄朝旨の在る所を執りて動かず。克く一時農民の狂■
きょうえんを鎮圧なし得しは、其の当時世に称揚せし所にして、豈に夫れ水野参事が英明老練にして、それ等の活断を執るに躊躇せんや。況んや福岡城塁は猶ほ堅牢にして籠城するに屈強なりとす。
試に水野参事をして謀
はかり爰に出でしめ、其三城門を鎖ざし、三小隊の兵あれば烏合の乱勢を防禦して一週日を支んに、何の難きことあらん。其内には熊本鎮台兵の応援は期して俟つべきなり。今や水野参事が緩急の策略果して爰に出でざりしものは、稍や故あることなるべし。試みに思へ、鎮撫総督は袂を払つて其任を辞し、各地の鎮撫隊は眼前に乱勢が進入するを視ながらも持場を払つて解散し、其他壮士連が激論の如きは著しく水野参事が平素の施政上に不平を鳴せしものゝ如き観想を呈せしを、水野参事は必ず想ふ。鎮圧を依頼し干城と恃みし福岡士族が、今は一揆に一味し共に県庁を抗撃して、平素の不平を洩すものならんとの疑念を容れざるなきを得ざりしなり。
故に乱勢が博多へ乱入し、近く県庁に迫り来るとの最後の飛報に接し、水野参事は今は此迄なりとて、在庁の一列を集め、慇懃に説諭して謂らく。一揆勢の猖獗、彼が如し。余は県庁を守りて籠城し一命を果さんと、一旦覚悟は究めしも、倩
つらつら惟
おもんみるに、斯ては却て福博市街は放火の災害に罹るべし。元来余が治蹟の欠ぐる所ありて斯く農民が暴怒を醸
かもせしことなれば、余は今より城門口に至りて押来る農民え一応の説諭を試み、以て自から決する所あるべきなり。
去れば諸君等は銘々意の在る所に随ひ、早く県庁を去りて其難を避くべしとの一語を残して、水野参事は史生中川鉄夫其他二三名を随へ、表城門に嚮て出行きぬ。団権参事は大属川上尚一と共に、追廻
おいまわし城門に嚮い落行き、又た大谷典事は上橋
かみのはし門口に出て杉山英三郎が隊へ、月形典事は下橋
しものはし門口に出て村上彦十が隊に入りて各門口に於て最後の説諭をなしたりける。
其他の官吏は三々伍々名残惜しげに県庁を去りて行所を知らず。独り寺内正員一人のみ、猶ほ県庁へ留り、県庁の印爾、其他緊要の書類を護衛せり。水野参事が県庁を引上ると同時に、一揆の先勢は疾風の如く鬨
ときを上げ、吶喊
とっかんして下橋城門口より乱入し、官舎を放火し、県庁に闖入して器具と書類に論なく悉く破壊残暴を逞くせり。然れ共寺内正員が臨機の一言にて本庁は幸に放火をなさゞりし。其顛末は後回にて詳述すべし。
因に記す。乱勢が進んで官舎を焼くや、一人の嬬女
たおやめ烟の中より狂ひ出て、余程狼狽せしと見へ、紅袢一枚にして堀池へザンブと飛入り、向岸なる水野参事が邸内指して泳ぎ渡りし有様は恰も日高川の清姫かと疑はれ、数万の乱勢と防禦隊の差別なく、アレアレと一斉に手を拍て声を上げ、暫時の間鳴りは静まらざりしは、又た一興にてありし。抑も此の嬬女は如何なるものなりしぞ。新茶屋の小うめとか呼べる■■
げいぎにして、所用ありて官舎に止り、此の難に遭ひしに、幸に命計りは助りたりと云ふ。